【やんちゃで暴れん坊。大槍を携え戦場を駆ける侍・前田利家の生涯】




【忠臣から浪人へ。その経験が糧となり領地に繁栄をもたらすことに】


利家は天文6年(1537)、尾張国(現在の愛知県)の侍・前田利春の四男として生まれました。

侍の家に生まれたとはいえ4番目の男子となると、他の兄弟たちより低い立場になってしまいます。

そのため、利家は自分の力で侍としての地位を向上させていかなければなりませんでした。

前田家は織田家の家臣である林秀貞に仕えていましたが、利家は15歳の頃、側近として織田信長に直接仕えることとなります。


天文21年(1552)、利家は15歳で「萱津の戦い」に参戦し、初陣ながら敵を討ち取ることができました。

この後も「稲生の戦い」や「浮野の戦い」などに参加し活躍。

この頃から「槍の又左」と呼ばれるようになります。

利家は闘争心溢れる性格だったため、戦では恐れを知らずに敵に立ち向かっていきました。

利家が次々と敵を討ち取る姿に、信長はその武勇を称賛したといわれています。


永禄元年(1558)頃になると、信長の側近などで構成された「母衣衆」という軍団に名を連ね、数々の功績を挙げていきました。

「赤」と「黒」のふたつの部隊で構成された「母衣衆」の中では、「赤」で随一の侍と呼ばれるほどになったと言われています。


またこの頃、10歳近く年の離れた「まつ」と結婚しています。

二人はとても仲が良く、子宝にも恵まれました。


信長のもとで順調に功績を重ねていた利家ですが、ある事件を起こしてしまいます。

それは永禄2年(1559)に起こった「笄切り」という事件です。

利家がまつから贈られた「笄」という髪飾りを、信長が目をかけていた拾阿弥に盗まれてしまいました。

そのことを信長に進言したのですが、信長は拾阿弥を無罪としてしまったので、利家の怒りは収まりません。

信長の目の前で、拾阿弥を斬ってしまったのです。

信長は利家を手討ちにしようとしましたが、織田家家臣の柴田勝家が仲裁に入り、命は助けられ、代わりに追放処分を受けることになります。


追放中は、妻子をかかえ、経済的にも厳しい生活を送っていました。

後に利家は、当時日本に伝来して間もない「そろばん」を使い、前田家の決済を取り仕切り、倹約家と言われるようになりす。

また、資金の調達などが厳しい侍たちに、お金を貸すなどということもしていたようです。

これは、貧しい生活を送り、お金の価値が身に染みるという経験があったからだと言われています。


やがて信長の許しを得ると、その後も信長軍として様々な戦いに参戦していきました。

しかし、天正10年(1582)「本能寺の変」が起こり、信長が死亡。

主君を失った利家は柴田勝家と行動を共にしますが、後に豊臣秀吉に仕えることになります。


秀吉に仕えた利家は、ここでも数多くの戦に参戦し、武勲を挙げます。

そして秀吉が天下統一を果たすと、五大老という幕府の要職に就きました。


秀吉が亡くなった後は、まだ幼かった秀吉の嫡男・秀頼を後援する役目に就きます。

しかし、秀吉を失った家臣たちはしだいに争うようになっていきました。

そんな中、ひたすら秀吉の遺言を守り、嫡男・秀頼を守っていた利家でしたが、病の床につき、61歳でその生涯を閉じました。


【主君への忠義のため戦場を駆ける利家。その名は天下に響くことに】


利家が追放処分を受け、信長のもとを離れていた頃、信長と今川義元との間に「桶狭間の戦い」が勃発しました。


利家は、なんとしても信長のもとで再び戦いたいと思い、実力行使に出ます。

利家は信長に無断で、信長軍として戦に参戦。そこで敵を3人討ち取り信長軍の勝利に貢献しましたが、信長の許しを得ることはできませんでした。


翌永禄4年(1561)には信長が斎藤義龍と争った「森部の戦い」が起こります。

利家はここでも信長に無断で参戦しました。

そして、敵の中でも怪力と言われていた侍・足立六兵衛などを討ち取り、武勲を挙げます。

利家の見事な戦いぶりを見た信長は、利家の罪を許しました。

ようやく信長の家臣に戻ることができた利家は、これまで以上に、信長に忠誠を誓ったと言われています。


永禄12年(1569)には信長の意向もあり、前田家を継ぐことになりました。

そして、自身が生まれた「荒子城」に戻り、前田家が引き継いできた領地を治めることになります。

また、信長軍と浅井氏・朝倉氏が戦った「金ケ崎の戦い」では、信長の警護を任されるまでにもなりました。


利家の活躍は目覚ましく、元亀元年(1570)「姉川の戦い」でも主だった敵を討ち取り「日本無双の槍」と言われるほどになりました。

また「春日井堤の戦い」で織田軍が退却を強いられた時には、たった一人戦場に残り、味方が無事に逃げきるのを助けたと言われています。

さらに「一乗谷での戦い」、「長島一向一揆」にも参戦。「長篠の戦い」でも敵を討ち取り、織田軍での地位を確固たるものにしました。


その後、信長の家臣・柴田勝家のもとで、一向一揆の鎮圧をはじめとする多くの戦いに参戦します。

越前の一向一揆を平定すると、利家・佐々成政・不破光治は「府中三人衆」と呼ばれ、共に越前国府中(現在の福井県北東部)を治めることになりました。

その中でも利家は府中城を築城し、加賀の大名となります。

この後も柴田勝家のもとで活躍し、北陸地方の領土拡大やその防衛などに力を注ぎました。


また、信長の命令で「有岡城の戦い」や「三木合戦」にも参戦しており、その戦いでも武勲を重ねていったと言われています。


天正9年(1581)になると信長から能登国(現在の石川県北部)の領土を任され、七尾城に入りました。

しかし、七尾城は港から離れていたため、港が臨める小山に小丸山城を築城します。

これは、能登国の経済発展を考えてのことだと言われています。

後に「加賀百万石」という言葉が生まれ、加賀・能登・越中にわたる地域が豊かに栄えたことが語り継がれることになりますが、その基礎を作ったのが利家だと言われています。


【忠義と友情の間で苦しんだ利家だが、秀吉の天下統一に大きく貢献】


信長のもと、順調に出世を果たしていった利家でしたが、大きな転機が訪れます。

天正10年(1582)「本能寺の変」が起こり、信長が亡くなってしまいました。


この時、信長の嫡男も自害してしまったため、織田家の領地のことや、誰が後継者になるのかなどを決める「清須会議」が開かれました。

この会議では、長きにわたり共に織田家に仕えた柴田勝家と、豊臣秀吉の意見が対立してしまいます。


利家と秀吉は同じ尾張国の出身で、年齢も同じということもあり、親交を深めていました。

そのため利家は、柴田家と豊臣家、どちらに付いたらいいのか悩み、苦しんだと言われています。


天正11年(1583)に起こった「賤ヶ岳の戦い」では柴田勝家と共に秀吉軍と戦うことになりました。

しかし利家は、合戦の途中で突然撤退してしまいます。

これが引き金となって柴田軍が負けることになりました。

この突然の撤退は、秀吉側からの申し入れがあったのではないかと言われています。


この戦い以降、利家は秀吉に仕えることになり、新しく加賀の領地を与えられました。

これにより、北陸地方の統治が強化されることになります。


天正12年(1584)、秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍との「小牧・長久手の戦い」が起こりました。


時を同じくして、かつて利家と共に越前を治めていた佐々成政が能登を攻めてきました。

成政は能登での重要な拠点である「末森城」を包囲します。

末森城が危険な状況にあると知った利家は2500人の兵を連れて能登へ出陣しました。

成政の軍は1万5000人もいましたが、利家はその背後から襲いかかる作戦を行い、少数ながら末森城を守ることに成功しました。


秀吉は「長久手の戦い」で敗れますが、北陸の領地は利家が守りきったと言われています。


佐々成政との戦いはその後も続きましたが、関白となった秀吉の力添えもあり、成政を降伏させることに成功しました。

成政の領土は取り上げられ、利家の長男・利勝が越中の領地を秀吉から貰うことになります。

さらに、越前を領地としていた丹羽長秀が病に倒れると、その領地も利家が引き継ぐことになり、北陸を治める礎を築きました。


天正18年(1590)に秀吉軍の小田原攻めが起こりますが、利家は北国を領地とする侍たちの総指揮官として参戦しています。

利家の活躍は秀吉軍の中においても評価が高く、重んじられていたと言われています。


【病床の秀吉からすべてを任された利家は豊臣政権の最期の砦だった】


秀吉が天下統一を成し遂げると、利家は京や大坂で、幕府の要職である「五大老」としての力を発揮するようになります。


文永3年(1594)には位が上がり、徳川家康に次ぐ立場になりますが、次第に体調を崩すようになりました。

この頃、第一線から退きたいと秀吉に申し出ますが、その願いは聞き入れられませんでした。


慶長3年(1598)、豊臣秀吉が亡くなり、豊臣家は秀頼が継ぎますが、利家は秀頼の補佐の役目を担うことになりました。


しだいに秀吉の命令で戦の最前線に出ていた侍たちと、利家など、城に残り政務を担当していた侍たちとの間で対立が深まるようになっていきます。


中でも加藤清正と石田三成との争いは激しく、戦に発展するかと思われました。

しかし、利家が仲裁し、争いを鎮めたと言われています。


こうして秀吉亡き後も幕府の要として豊臣政権を守っていた利家でしたが、翌・慶長4年(1599)、病によりこの世を去りました。