
【仏の教えに親しむ傍ら侍としての責務に悩んだ謙信の決断とは】
上杉謙信は享禄3年(1530)、越後国(現在の新潟県)の守護代・長尾為景の息子として生まれました。
長尾家は、越後国を治める守護大名・上杉家に仕えていた侍の家系です。
謙信は7歳の時に曹洞宗・林泉寺に入門しましたが、お城の模型などで遊んだり、武芸の訓練に通じるような遊びを好んでいたと言われています。
謙信はこの林泉寺で出会った天室光育という僧侶のことを、生涯にわたる師匠として仰いでいました。
写経や坐禅などで心身を鍛えると同時に、様々な戦術についても学んだのではないかと言われています。
天文12年(1543)、父・為景が亡くなった2年後、林泉寺を出た謙信は栃尾城に入り、元服しました。
この頃、父・為景の生前の行いに異を唱える侍たちの不満が募り、長尾家を滅ぼそうという動きが活発になっていました。
父・為景は家臣でありながら、君主である上杉家より実権を握っていました。
その強引なやり方に他の侍は納得できなかったのです。
長尾家は謙信の兄・晴景が跡を継いでいましたが、病弱だったため戦の先頭に立つことはできませんでした。
そこで、若干14歳の謙信が兵を率いて出陣することになります。
敵方は、まだ少年だった謙信のことを軽視していましたが、見事に撃退することに成功。
これが謙信の初陣となりました。
その後も家臣の反乱などを見事に鎮めたため、その実力は周囲に認められることとなりました。
兄・晴景がすでに病床にあったこともあり、19歳で長尾家を継ぐことになります。
その後も反対勢力が反乱を起こしましたが、室町幕府13代将軍・足利義輝の力強い後押しもあり、越後国主という役目を担うことになりました。
そして天文20年(1551)、越後を統一することに成功します。
その翌年、相模国(現在の神奈川県)の北条氏に攻め込まれた上杉憲政が越後に亡命してきました。
謙信はこれに助勢することを約束しましたが、これにより北条氏康と対立することになります。
また、武田信玄が信濃国(現在の長野県)に攻め込んできたため、その地を統治していた小笠原長時が救援を求めてきました。
さらに翌年の天文22年(1553)、信濃国で信玄と戦っていた村上義清が自身の居城から脱出。ここでも救援を求められることになります。
この出来事がきっかけとなり、12年もの長きにわたって川中島で戦いが繰り広げられることになります。
そしてこの年、初めて京へ向かい、後奈良天皇から直接「敵を討伐するように」との命令を受けます。
またこの時、天台宗・総本山とされる延暦寺や真言宗・総本山とされる金剛峯寺、浄土真宗(真宗)各派の本山とされる本願寺などを詣でています。
臨済宗・大徳寺派の大本山と言われる大徳寺では禅を学び、仏門に入った証として「宗心」という名前を授けられました。
その後も北条軍や武田軍などと戦いを繰り広げていましたが、弘治2年(1556)27歳の時、突然隠居を宣言します。
そして春日山城を出て高野山に向かいました。
謙信は、家臣が個人の利益や欲望にとらわれ、敵対しあっていることに我慢がならなかったのだと言われています。
しかし家臣の説得で思いとどまり、春日山城に戻りました。
この後、謙信は様々な戦いの中に身を置くことになります。
謙信は幼い頃から仏門で学び、仏法の守護神である毘沙門天を篤く信仰していました。
毘沙門天は、仏法の教えを妨げる邪鬼を成敗する武神と言われています。
謙信は、仏門に入るという生き方を選びたかったのかもしれません。
しかし謙信は、越後国を治める者としての責務も果たさなければなりません。
それならば毘沙門天のように、戦乱の世を鎮めるために戦おうと決意したのではないでしょうか。
謙信は、世が乱れているのは国の秩序が乱れているからだと考えていました。
そのため、将軍・足利義輝を陥れようとする勢力などと戦い、将軍を守護するという姿勢を度々みせています。
その信念のもと、生涯で70回もの戦に参戦しましたが、そのほとんどに勝利したそうです。
他の侍たちからは「越後の龍」と呼ばれ、恐れられていたとも言われています。
謙信は最後まで関東平定を実現させようと出陣することを宣言していましたが、その願いも叶わず、49歳でこの世を去りました。
【世の乱れを正すには関東から。将軍の命を守るために戦う日々】
越後を統一した後の謙信の主戦場の一つは関東にあったと言っても過言ではありません。
謙信は川中島で信玄と戦いを繰り広げる傍ら、度々関東へも出陣していました。
第13代将軍・足利義輝から、関東を治める「関東管領」という幕府の要職に就くことを許されたことも大きな要因のひとつと言えます。
永禄3年(1560)、謙信は北条氏を討伐することを決断し、小田原城に向けて出陣します。
進攻する途中、志を同じくする他の侍も加わり、11万5000人もの軍勢になりました。
氏康は、謙信が戦略などをたてることに優れていることから、居城に籠って迎え討つ作戦に出ます。
上杉軍は北条軍が立てこもる居城を包囲し、攻撃を開始しました。
しかし籠城戦が長引くと、上杉軍の中で、謙信に無断で兵を引き、自分の領地に戻ってしまう侍なども出てきました。
そのため謙信は小田原城の包囲網を解き、鎌倉に向かいました。
そこで謙信は正式に「関東管領」を拝命します。
そして、これまでの「長尾」を改め「上杉」を名乗ることとなりました。
結果として小田原城を攻め落とすことはできませんでしたが、「関東管領」就任の儀式を執り行うことで、関東の侍たちに幕府の名のもとに関東を平定するということを認識させることができたと言われています。
謙信は、この後しばらくは武蔵国にとどまっていましたが、川中島界隈での信玄の動きが再び活発になってきていたため、越後に戻りました。
【川中島をめぐる攻防戦。敵将・武田信玄との間にあったものは?】
上杉謙信と言えば武田信玄と戦った「川中島の戦い」が有名ですが、5回ある戦いの中で最も激戦だったと言われているのが永禄4年(1561)に繰り広げられた4回目の戦いでした。
川中島一帯は豊かな穀倉地帯で、信濃統一を目指している信玄は、どうしても手に入れたい地域でした。
しかし謙信は、自身が住む春日山城から70キロメートルほどのところにあるこの地を渡してしまっては、越後を守ることが厳しくなると考えていました。
この年、謙信は約1年ぶりに関東から越後に戻ると、約1万3000人ほどの兵を率いて川中島に向かいました。
一方信玄は、川中島を手中に収めるため、海津城を築城。
ここを拠点として戦いに挑もうとしていました。
謙信は自軍が有利に進められるよう、海津城を見下ろすことができる妻女山に陣を張ります。
信玄は約2万の兵を率いて海津城に入りますが、上杉軍には目立った動きがありませんでした。
そこで信玄は、自軍を二手に分け、謙信の陣を背後から襲わせ、驚いて下山してきたところを本隊が迎え討つという作戦に出ました。
ところが謙信は、海津城でのわずかな変化を見抜いていました。
篝火や自陣を囲う陣幕などはそのままにし、静かに下山。武田軍が待ち構えていると思われる八万原に向かったのです。
奇襲作戦が成功すると信じて疑わなかった武田軍は、八万原に現れた無傷の上杉軍に動揺したと言われています。
武田軍は、別動隊が合流するまで持ちこたえようと必死でした。
一方、上杉軍としては、合流される前に信玄を討ち取るということに勝負をかけていました。
上杉軍の攻撃は想像以上だったと言われています。
武田軍は軍師として重要な家臣であった山本勘助などを失うことになりました。
この時、謙信は自ら信玄を討ち取ろうと何度も斬りつけたと言われています。
謙信と信玄が直接対決をしたのはこの時が初めてでした。
やがて武田軍の別動隊が合流すると、数で優る武田軍が有利になりました。
不利な戦いを強いられることになった謙信は兵を引いたと言われています。
この戦いで勝敗は決まりませんでしたが、今も語り継がれる勝負となりました。
永禄7年(1564)、5回目となる川中島の戦いが勃発しましたが、信玄は謙信との直接対決を避けたため、ここでも勝敗は決まりませんでした。
そして、これを最後に謙信と信玄が川中島で対戦することはありませんでした。
後に「敵に塩を送る」という言葉が有名になりますが、これは謙信が信玄に対して行ったことだと言われています。
川中島の戦いから4年ほど過ぎた頃、当時信玄と敵対していた勢力が、海が無い甲斐(現在の山梨県)に塩を流通させることを禁じてしまいました。
それを知った謙信は、それでは甲斐に暮らす人々が苦しむことになると、自分の住む越後から甲斐に塩を流通させたそうです。
謙信のこの行いに信玄は感謝し、お礼として太刀を贈ったと言われています。
【関東を平定し秩序を取り戻す。謙信が最後まで願っていたこととは】
永禄8年(1565)、謙信の後ろ盾となっていた足利義輝が暗殺されるという事件が起きました。
義輝は、関東平定を実現するため、亡くなる前年から2度にわたり、北条氏に謙信と和睦するよう呼び掛けていました。
もし、もっと早いうちに関東平定が実現していたら、義輝は命を落とすことはなかったと、謙信は悲しんだと言われています。
その4年後、ついに「越相同盟」が結ばれ、北条氏康は謙信と和睦することになりました。
その頃、京では織田信長の働きにより足利義昭が第15代将軍となりました。
ところが、信長は義昭と対立するようになります。
元亀4年(1573)、信長によって京から追放されてしまった義昭は、謙信に信長を討ち、幕府を再興させるよう要請します。
天正4年(1576)、謙信は、信長と長年戦っていた石山本願寺と和睦を結び、共に信長と戦うことになりました。
能登国(現在の石川県)に進攻していた謙信は、織田方の七尾城主・長続連の抵抗を受けますが、約10か月にも及ぶ攻防の末、これを陥落させることに成功します。
さらに、信長が送った3万人もの援軍を加賀の手取川で撃退しました。
この「手取り川の戦い」が、謙信の最後の戦いとなりました。
謙信は春日山城に戻ると、翌年の3月に、関東へ向けて出陣すると宣言します。
しかし天正6年(1578)年3月9日、出陣を6日後に控えた謙信は突然倒れてしまいました。
そして4日後、そのまま息を引き取ったと言われています。
乱世を憂い、世の中の秩序を回復させようと毘沙門天のごとく戦いぬいた謙信。
49歳という短い生涯でした。