
【幼少期から暴れん坊。為朝は父も手を焼く強者だった】
身長が七尺(約2メートル10センチ)あり、剛力の持ち主と語り継がれている源為朝。
彼は保延5年(1139)、源為義の八男として生まれました。
後の時代で有名になる源頼朝も同じ一族で、侍の中でも名門といわれています。
少年時代から気性が荒く、兄たちにも無礼な態度を取っていたそうです。
為朝のその態度は父・為義の手にも負えず、九州に追放されてしまいました。
ところが、追放された身でありながら「九州を平定するために遣わされた」と言い、九州の有力な侍たちとの争いを繰り返していたそうです。
為朝はわずか3年で九州を平定し「鎮西八郎為朝」と呼ばれるようになりました。
しかし、九州でも無礼な態度を改めなかったので、朝廷に訴えられてしまいます。
それにより朝廷へ出頭するよう命じられますが、これにも従いませんでした。
しかし、父・為義が朝廷での役職を解任されてしまったため、ようやく京へ戻る決心をしたそうです。
保元元年(1156)保元の乱がおこり、為朝は父・為義と共に崇徳上皇方として参戦しました。
自慢の弓で奮闘しますが、崇徳上皇方は敗れてしまいます。
そのため、罪人として伊豆諸島に島流しとなりました。
流刑の地である伊豆諸島でも力にものを言わせ、伊豆七島を支配するまでになります。
しかし、朝廷の命令により討伐隊が送られること知り、自らの命を絶ちました。
【保元の乱で窮地に立つも、後世まで語り継がれる為朝の力強さ】
為朝が剛弓を携えて参戦したのが保元の乱です。
保元の乱は、時の天皇・後白河天皇と崇徳上皇のどちらが政権を握るかということから始まった争いでした。
その争いに為朝は父・為義と共に崇徳上皇方について戦いました。
崇徳上皇方は兵が少なく、応援の兵が到着するのを待っている状態でした。
しかし為朝は、敵の不意をついて夜、奇襲をかけることを提案します。
敵方には、為朝の兄・義頼がいたため、兄ならこのような戦い方をするのではないかとも考えたそうです。
でもこの争いは「どちらが政権を握るか」という、時の天皇家での争いです。
為朝の提案は、野蛮な戦い方だとして、受け入れられませんでした。
ところが、為朝が予想した通り敵方が奇襲をかけてきたのです。
これにはとても悔しい思いをしたと言われています。
敵の軍勢が押し寄せる中、為朝は自慢の弓をたくみに使い、大奮闘しました。
為朝の弓は大人5人がかりでやっと射ることができると言われているものでした。
そのため使う矢もとても太いもので、鏃は七寸五分(約22センチメートル)もあったと言われています。
その威力はとても強力で、侍の甲冑を貫通し、背後にいる侍の甲冑にまで刺さるほどでした。
その矢を見た敵の侍・平清盛はあまりの威力に戦意を失ったとも言われています。
また敵の軍勢を退けようと、敵の侍の兜についている飾りだけを射たという逸話も残されています。
力だけではなく、正確な技術も持っていたと言うことができるでしょう。
為朝は兄・義頼と激しい戦いを繰り広げていましたが、自陣である白河北殿に火をかけられ、命からがら脱出しました。
追手から逃れるため近江国(現在の滋賀県)に行きついた為朝は、そこで病に倒れてしまいます。
湯治場で病を治そうとしていたところ、追手に捕らえられてしまいました。
為朝は京に護送された後、罰として伊豆諸島への島流しを命じられました。
その時、二度と弓が使えなくなるように肘を外されてしまったと言われています。
【負ければ罪人。それでも為朝は己の力を信じて駆け抜けた】
罪人として伊豆諸島に流された為朝ですが、生来の気性が静まったわけではありません。
腕の傷が治ると、今度は伊豆諸島を平定しようと実力行使に出ます。
島の代官の婿となった為朝は、領民から取り立てた年貢を納めることもやめてしまいました。
しかし代官は、伊豆諸島を治める侍・工藤茂光の怒りを買うことを恐れ、為朝には知らせずに年貢を納めます。
これを知った為朝が黙っているはずはありません。
激怒のあまり、代官の手の指を三本切ってしまったと言われています。
さらに10年の歳月が流れた永万元年(1165)、ついに伊豆諸島の七つの島を平定することに成功しました。
島々の中には鬼ヶ島と呼ばれ、鬼の子孫である大男が住んでいるとされている島もありました。
為朝はその大男を一人、連れ帰ってきたとも言われています。
嘉応2年(1170)、本来、伊豆諸島を治めていた侍・工藤茂光は京へ行き、為朝の度重なる無礼極まりない行いを訴えました。
それにより、ついに「為朝を討伐せよ」という命令が下ります。
朝廷に仕える侍たちは、500騎あまりの軍勢を従えて伊豆諸島に向かいました。
この時、為朝は自慢の弓で、追手の船を射抜いたと伝えられています。
しかし、もう逃れることはできないと悟り、自らの命を絶ちました。
自らの力を信じ、思いのまま生きた為朝。
32歳の短い生涯でした。