【徳川家に忠誠を誓い、敵方からも称賛された侍・本多忠勝の生涯】




【14歳で敵を討ち取り、生涯無傷の軍神・本多忠勝】


代々徳川家に仕え、徳川四天王としてその功績を称えられた本多忠勝。

彼は天文17年(1548)、三河国(現在の愛知県)の侍・本多忠高の長男として生まれました。

しかし翌年、父・忠高が戦死してしまったため、叔父・忠真のもとで育てられます。


本多家は、代々徳川家に仕えている侍の中でも最も古いとされている一族でした。

そのため、忠勝も幼い頃から徳川家康に仕えていました。


忠勝の初陣は永禄3年(1560)でしたが、残念ながら敵を討ち取るまでには至りませんでした。

初めて敵を討ち取ることができたのは、永禄5年(1562)の「鳥屋根攻め」という戦いだったと言われています。

その後も「上ノ郷城攻め」、「牛久保城攻め」などに参戦し、手柄をあげていきました。

若くして家康に認められた忠勝は、徳川軍の中核として戦に参加していきます。


忠勝が参加した戦の数は57回にものぼるとされ、すべて無傷で生還したと言われています。

その忠勝の手には、「蜻蛉切」という槍が携えられていました。

この槍は一般的なものより1.5倍ほど長く、全長は6メートル以上もあったと言われています。

そして、戦場で槍の穂先に止まった蜻蛉が真っ二つに切れてしまったという逸話から、「蜻蛉切」と呼ばれるようになりました。


関ヶ原の戦いにも参戦し、徳川家に忠誠を誓っていた忠勝も、しだいに老いを感じるようになります。

自慢の「蜻蛉切」も思うように扱えなくなるからと、短く削ってしまったそうです。


57歳の頃からは目の病にかかってしまったため、江戸幕府の要職からも遠ざかることになりました。

慶長14年(1609)、息子・忠政に家長としての役目を全て託して引退。

そして64歳になった翌年、桑名城でその生涯を終えました。


【勇猛果敢に戦場を駆け巡る忠勝に敵の侍までもが絶賛!】


忠勝の名が広く知られるようになったのは、永禄6年(1563)に起こった「三河一向一揆」でした。

この戦いでは、本多家のほとんどが敵方に付く中、忠勝は一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗し、徳川方として参戦しました。

忠勝の勇猛果敢な戦いを見た家康は、「侍の中でも特に秀でている」と称賛したと言われています。


その後忠勝は若干19歳という若さで、家康が作った「家康旗本衆」という部隊の一員に選ばれます。

それは徳川家康直属の精鋭部隊で、即戦力として重要な役割を担っていました。


元亀元年(1570)の「姉川の戦い」では、織田・徳川連合軍は不利な状況を強いられます。

しかし、連合軍勝利への活路を開こうとした忠勝は、たった一人で敵軍の正面から突入しました。

その様子に、徳川軍も奮起し、忠勝を援護するように側面から突撃を開始します。

これらの働きにより、連合軍は逆転勝利をおさめることができました。

連合軍の長である織田信長は、「外見だけではなく実力も兼ね備えた侍だ」と忠勝を称賛しました。


また元亀3年(1572)の「一言坂の戦い」では、偵察に出た時、織田・徳川の領地を制圧していた武田軍と遭遇します。

忠勝は、浜松城まで撤退することになった徳川軍の最後尾で武田軍と戦うことになりました。

徳川軍にとってけして有利な戦いとは言えませんでしたが、忠勝は勇敢に戦い抜きました。

その雄姿を見た敵の侍は「家康の家臣にしておくにはもったいない侍だ」という内容の狂言を残したと言われています。


さらに忠勝は、家康からも「八幡大菩薩(侍たちが信仰していたとされる武術の神様)の再来だ」と絶賛されました。


【天下人・豊臣秀吉の目にも留まった忠勝の豪胆さ】


連合軍として共に戦ってきた織田信長が討ち取られた後も、徳川軍は信長の息子・信雄に味方していました。


天正12年(1584)、長年にわたり続く乱世の覇者をめぐり豊臣秀吉との間で「小牧・長久手の戦い」が繰り広げられました。

豊臣軍は7万~10万人もの兵力があったと言われていますが、織田・徳川連合軍はわずか2~3万人だったそうです。

数の上で不利だった徳川軍は、紀伊・河内・伊賀・丹波(現在の和歌山県・大阪府・京都府・兵庫県などの一部地域)などの侍たちに、協力を求めました。


そんな中、忠勝は丹波国の侍たちに戦況を知らせる書状を送り、糧食を確保することなども約束したそうです。

この忠勝の行動は、秀吉を包囲しようとする連合軍の働きに大きく関与したと言われています。

忠勝は状況を見て、徳川軍が有利に動けるよう考えることにも優れていたと言えるでしょう。


また忠勝は、戦いには直接かかわらず、小牧山城を守るために残っていましたが、徳川軍が不利な状況になるのではないかと考え、わずか500人の兵を連れて出陣しました。

この時、豊臣軍2万人の軍勢と遭遇しますが、忠勝は一歩も引かず、豊臣軍の追撃を阻止しようとしました。

秀吉は、どのような状況でも果敢に立ち向かう忠勝の姿を見て「忠勝を討ってはならない」と命令したと言われています。


8ヶ月にわたったこの戦いは、豊臣側が織田側に条件付きで和睦を申し入れたため、明確な勝敗が決まらないまま、終わりを告げることになります。

後に秀吉は、この戦いでの忠勝の功績を称えたうえ、自分の臣下になるよう働きかけました。

しかし忠勝は、家康には何物にも代え難い大きな恩があるからと、この申し出を断ったそうです。


【主君への終生変わらぬ忠誠心。これこそが侍と説いた忠勝】


徳川家に仕える侍として家康からも絶大な信頼を得ていた忠勝。

天下人と言われた豊臣秀吉が亡くなり、再び乱世の覇権をかけた戦い「関ヶ原の戦い」が起こりました。


その時忠勝は53歳。

本多家の兵・2500人は長男である忠政が率い、忠勝は徳川軍の本陣で、最高司令官という立場を担っていました。

数多くの戦を経験してきた忠勝は、武力だけではなく、戦況を把握し、的確に指示する能力などにも優れていたと言えます。


また、忠勝のもとには500人しか兵はいませんでしたが、それでも90人あまりを討ち取ったと言われています。


しかしこの戦いでは、愛馬を失ったばかりか、落馬までしてしまうという失態をさらしてしまいました。

これには忠勝本人だけでなく、敵までもが驚いたそうです。


この戦いの翌年、忠勝は伊勢国(現在の三重県)に領主として移り住みます。

その時、旧・領地は次男である本多忠朝に与えました。


伊勢国に移った忠勝は桑名城を築城します。

と同時に、城下町や東海道の宿場などを整備し、桑名の発展を支えました。

そのため「名君」と敬われています。


忠勝は64歳で生涯を閉じますが、遺言に「主君への忠義をかたく守ってこそが侍というものだ」とあります。

忠勝は家康に終生変わらぬ忠誠を誓っていました。

これこそ、侍としての見事な生き様だったと言えるのではないでしょうか。