【本能寺の変を起こした謀反者・明智光秀の謎につつまれた生涯とは】




【若くして一族離散。乱世に翻弄された光秀の半生とは】


戦国時代最大の謎とも呼ばれている「本能寺の変」。

その首謀者として、また主君を裏切った侍としてその名が知られている明智光秀。

その生涯もまた、謎に包まれています。


光秀を主人公として江戸時代に書かれた「明智軍記」という物語には、光秀は享禄元年(1528)、美濃国土岐(現在の岐阜県南部)に生まれたとされています。

侍の家には生まれたものの、当時の明智家は名だたる家柄ではありませんでした。

おそらく、美濃国の侍・斎藤道三の家臣に仕えていたのではないかと言われています。


光秀は7歳の時に父・光綱を亡くしたため明智家を継ぎますが、叔父・光安に後見を務めてもらうことになります。


天文13年(1544)「加納口の戦い」では斎藤道三の稲葉山城を織田信秀が攻め込んで来ました。光秀も斎藤軍として参戦しています。

この戦いでは道三の作戦が功を奏し、織田軍を撃退しました。


しかし、弘治2年(1556)「長良川の戦い」では道三とその長男・義龍の間で争いが起こり、道三は討ち死にしてしまいます。

義龍は明智城にも攻め入ってきたため、明智家は一族離散となってしまいました。


光秀の活躍が知られるようになったのはそれからおよそ10年後のことになります。

その間、朝倉義景に仕えていたという説もありますが、それは「明智軍記」に書かれていた創作ではないかと言われています。


しかし、光秀が生まれた美濃国と朝倉義景が治めていた越前国(現在の福井県・岐阜県の一部を含む地域)は近かったため、領地を追われた光秀が朝倉領に行き、何らかの糧を得て生計を立てていたのではないかとも言われています。


やがて光秀は、後に室町幕府の第15代将軍になる足利義昭に仕えることになりました。

そしてこの頃、織田信長とも出会うことになります。


信長のもとで多くの戦に参戦し、領地なども貰い受けた光秀でしたが、天正10年(1582)、後に「本能寺の変」と呼ばれる謀反を起こします。


光秀がなぜ主君を裏切ってしまったのか、光秀の本当のねらいは何だったのか、それは今も謎につつまれたままです。


【足利義昭と織田信長。光秀の命運を大きく動かした出会いとは】


光秀が歴史の表舞台から姿を消していた10年もの間に、当時の第13代将軍・足利義輝が暗殺されるなどの事件が起こりました。

義輝に仕えていた侍・細川藤孝は、義輝の弟である義昭を次の将軍にしようと、奔走します。

その時、光秀と出会い、更に美濃国にいる織田信長のもとへ協力を求めたと言われています。


そして永禄11年(1568)、義昭は晴れて第15代将軍の地位に就くことになりました。

この頃光秀は、義昭と信長の両方に仕えていたと言われています。

ところが義昭と信長は次第に対立するようになってしまいました。

おそらく、幕府を再興しようと考えていた義昭に対して、信長は自身が天下統一を果たそうと考えていたからではないかと言われています。


そんな中、光秀は信長軍として戦に参戦するようになりました。

元亀元年(1570)に起こった「金ケ崎の戦い」では、撤退する信長軍の最後尾を守り、味方が無事に戦場から離れられるよう働きました。


また、元亀2年(1571)に起こった信長による比叡山の焼き討ちにも、何らかの形で関わっていたと言われています。

それは、この事件が起こった後、信長から近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の領地を与えられ、居城とする坂本城の築城を許されたからです。

おそらく、信長も一目置くような活躍があったからなのではないでしょうか。


光秀は、その後も信長軍として様々な戦に参戦しました。

天正元年(1573)に義昭との間で起こった「槇島城の戦い」では織田軍が勝利し、将軍であった義昭は京都から追放されてしまいます。

これにより、室町幕府は滅亡することになってしまいました。


その後、信長は天下統一を果たすべく領地を広げていき、その各地での戦いには光秀の姿がありました。


【大恩ある主君・信長に弓を引く覚悟。その先にあったものとは】


信長軍の勢いはとどまることを知らず、各地に火の手が上がっていきました。

天正4年(1576)、光秀は長きにわたり信長に抵抗していた石山本願寺に攻め込みます。

また、同じ時期には亀山城の築城も手掛けています。

天正7年(1579)には丹後国(現在の京都府北部)を手中に収めた信長から領地が与えられました。

かつて一族離散という辛酸をなめた光秀でしたが、信長と出会ったことで近江国や丹波国などの領地を治めるまでになりました。


また、足利義昭のもとから共に信長に仕えるようになった細川藤孝とも交流を続けていました。

藤孝の息子に嫁いだ光秀の娘は、後に細川ガラシャという名で多くの人に知られることになります。


信長のもとで順調に出世していったように見えた光秀ですが、天正10年(1582)、信長に弓を射ることになります。

これが、後に言われる「本能寺の変」です。

わずか100人あまりの家臣を連れて本能寺に滞在していた信長を、光秀の軍勢が襲撃しました。

信長は光秀に討ち取られるより前に、寺に火をかけ自害したと言われています。


その後、光秀は京に滞在し治安の維持につとめますが、織田家・家臣の中で最も力を持っていた柴田勝家の動向を注視していたとも言われています。


また、縁戚関係にあった細川藤孝など名だたる侍に、自分に味方してもらうよう、呼びかけています。

しかし、細川藤孝父子は「信長の喪に服する」という理由で加勢することを断りました。


そんな時、豊臣秀吉の軍勢が京に向けて進行しているという知らせを受けます。

光秀軍はわずか1万6000人。対する秀吉軍は4万人にものぼったそうです。

こうして、信長の弔い合戦とも言える「山崎の戦い」が起こりました。

光秀軍は撤退に撤退を重ね、拠点のひとつとされていた勝龍寺城に戻ることになります。

しかし、その時には自陣の兵は700人ほどになっていたと言われています。


秀吉軍の追撃を受けた光秀は、密かに城から脱出。自身の本拠地である坂本城に向かいました。

光秀はその途中、小栗栖(現在の京都市伏見区)の藪で落ち武者狩りに遭い、竹槍に刺されました。

その時、命を落としたとも言われていますが、傷を負っただけで後に自害したとも言われています。


天下統一を果たそうとした信長を自害に追い込んだ光秀でしたが、「本能寺の変」からおよそ10日ほどで、秀吉軍により命を奪われることになってしまいました。

このことから後に「光秀の三日天下」とも呼ばれています。


光秀が「本能寺の変」を起こした理由については諸説あり、その中には室町幕府の再興を願っていたためというものもあります。

近年の研究では、光秀が朝廷とも密かに繋がっていたのではないかとされるものもあります。

戦乱の世に生まれ、一族離散という目にも遭った光秀が、幕府再興を願い、平穏な世を願うあまりに起こした事件だったとも考えられるのではないでしょうか。