壮絶な最期を遂げた細川ガラシャ!?その運命とはいかに




1.細川ガラシャの人生


・生い立ち

1963年、明智光秀と妻照子の間に生まれたガラシャ。「たま」という名前をつけられ可愛がられていました。

光秀の主君である織田信長の計らいにより細川忠興と結婚。子供を産みます。


・本能寺の変

1582年本能寺の変にて玉(ガラシャ)の父である光秀が信長を討ちます。その後秀吉に光秀が討たれ、たまは父親を失い、さらに謀反者の娘として扱われるようになりました。


・キリスト教との出会い

キリスト教に出会った玉は傾倒していき、洗礼名ガラシャを授かります。


・関ヶ原の戦い

ガラシャが最期を迎えるきっかけは関ヶ原の戦い。上杉征伐のため出陣する際、忠興が家臣に残した言葉は「妻の名誉に危険が生じる際は、妻を亡き者にしろ」というもの。三成はガラシャを人質にとろうとしましたが彼女は断固拒否。家老に槍で体を貫かせ死を選びます。


2.主要な歴史について徹底解説


・ガラシャとキリスト教

大阪の細川屋敷で暮らしていた玉(ガラシャ)は、忠興からカトリックの教えについて聞き、キリスト教に強い興味を示します。忠興の留守を狙い教会へ足を運び、修道士の話を聞きます。

秀吉からバテレン追放令が出た後、九州へ宣教師が帰ってしまう前にと洗礼を受け、洗礼名「ガラシャ」を授かります。


3.壮絶な最期


壮絶な最期を迎えたことでも知られる細川ガラシャ。「妻の名誉に危険が生じる際は、妻を亡き者にしろ」との言葉を残して上杉征伐へ出陣した忠興の言葉通り、自ら死を選びます。

しかしキリスト教の教えにより、自死は禁止されていました。そのため彼女は家老の小笠原秀清に胸を槍でつかせ死亡。さらに忠興は、家臣もろとも全員切腹して死ぬようにとまで命じてありました。これはガラシャの名誉を守るため。小笠原秀清は忠興の言葉を守り、屋敷に火をつけ自死。この決断には三成も驚き、作戦を変更したほどだったのです。