大太刀の侍、佐々木小次郎



3尺余の大太刀を振りかざし「燕返し」で敵を斬る!

宮本武蔵との決闘で有名な佐々木小次郎の出生は謎に包まれています。

天正もしくは永禄時代の生まれとされていますが、事実は明らかになっていません。

鐘捲流の鐘捲自斎の下で剣を学び、武者修行のため全国を巡り歩きました。

3尺余の愛刀「備前長光」を携え「燕返し」という技を考案し、18歳の頃には「岩流」と呼ばれる流派を開いたといわれています。

1612年(慶長17年)に九州小倉の舟島にて宮本武蔵と決闘し、戦いに敗れその生涯を終えました。

生まれた年が不明のため、没年齢にはさまざまな説があります。

巌流島の決闘の時は18歳だったといわれることもあり、若くして亡くなったイメージがありますが、実はそうではなかったようです。

鐘捲自斎の下で修行したことを考慮すると50歳以上だった説が有力です。

決闘の時にはすでに70歳以上だった説もあります。


巌流島の決闘!宮本武蔵との戦い!

佐々木小次郎といえば、巌流島での宮本武蔵との決闘を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

1メートルはあろうかという大太刀を携える佐々木小次郎と、木刀で戦いに臨む宮本武蔵との手に汗握る決闘を描いた話はあまりにも有名です。

宮本武蔵は決闘にわざと遅れ、佐々木小次郎の精神状態を乱す作戦で勝利を収めたとして多くの人に知られています。

しかし、実は吉川英治の書いた小説での創作で、二人は同時に到着したのが真実のようです。

これは武蔵の死後9年目に建立された顕彰碑「小倉碑文」に記されており、佐々木小次郎という名も実は「岩流小次郎」だったようです。

また、1対1のはずの決闘に宮本武蔵が4人の弟子を連れてきた説もあります。

侍として決闘に敗れた佐々木小次郎

1対4の決闘を知った島の人たちは、佐々木小次郎を引き止めようとしました。

しかし「武士が約束を破るは恥辱」と一人で挑み敗れた佐々木小次郎に敬意を表し、小次郎の姓「岩流」にちなみ島の名前を「巌流島」に改めたともいわれています。

巌流島の決闘の時、武蔵は29歳でした。

50歳以上、または70歳以上とも言われる年齢で、体力的にも全盛期の武蔵と決闘をした理由とは何だったのでしょうか。

一説によると、お互いの弟子同士が「どちらの師が強いのか」と揉め事を起こしたことが発端ともされています。

血気盛んな年頃の武蔵であれば、弟子たちに煽られ意気揚々と決闘に臨むことは想像に難くないでしょう。

しかし、老年の佐々木小次郎が若者との決闘を断らなかったのは、佐々木小次郎の侍としての真っ直ぐな意思を感じます。

巌流島と島の名前を改めた島民たちの心には、佐々木小次郎の侍としての生き様が「岩流」という名とともに深く刻み込まれたのでしょう。